鈴鹿最高峰御池岳より藤原岳、静ヶ岳、竜ヶ岳へ滋賀、三重を県境とする尾根と木地師を育む御池川、土倉岳から岳へと靡く尾根、豊かな 自然に囲まれた茶屋川源流に佇む廃村、茨川。そこは永遠に時が止まる場所である。 山を歩くハイカーにせよ釣り人にせよ、廃村になってからというもの、様々な文献やTVなどで取り上げられ今では鈴鹿を行く者の間では 誰しもが知る存在になってしまっているがかつては、山奥に佇むひとつの集落に過ぎなかった。住人が居た頃の茨川を訪ねている登山者も 比較的多いと耳にするがその中で村の温もりに触れた人は極一部であると思える。こと渓流釣りに関しては当時、秘境的な存在で渓流釣り から故山本素石氏を知り、そこから廃村茨川を知り得た方が大半であろう。廃村になってこそ人の気を引く事になった訳で住人が居た当時 の茨川についての詳細を調べている文献は民俗学や郷土史を専門にしていた方のものしかない。 昭和9年「愛知川上流の村々、その生活の 断片」や昭和39年「鈴鹿山中に消えた村の民俗」があるが後は未発表の論文が少数ある程度でほとんどが廃村後の文献ばかりである。 「鈴鹿山中に消えた村の民俗」の著者である滋賀民俗学会会長の菅沼氏と以前話す機会があり、その当時の様子を少し伺った。 もともと豊中市立民族館に勤務していた氏はあるきっかけで滋賀県の民俗学を調査する事になり、滋賀県に住まいを移して滋賀の様々な 民俗についての調査を行っている。当時、愛知川ダム(永源寺ダム)の水没地域の民俗調査に手を染めていた氏は茨川が近い内に廃村に なると耳にし関連調査という名目でその歴史と伝承を後生に残そうと当時35歳であった氏は茨川へ一度出向いてその伝承について調査を している。菅沼氏が訪れた時はまだ幼い子供だったという現在名古屋にお住まいの筒井正氏が執筆された「廃村茨川の歴史と伝承」にも 写真を提供されており、 現在残っている当時の風景写真は大半が菅沼氏撮影のものである。 釣りを嗜む者で茨川がどんな村であったか存じぬ方も多いであろう。廃屋がある、岩魚も雨子もおらんと何気なしに歩いている茶屋川源流 のこの場所がどういう伝統をもってきたのか知っていただくにちょうどいい機会なのでその歴史と伝承に少し触れてみたい。 当時茨川で 生計を営んでいた方々は故人となられた方も多く、今では直接お話を頂戴する事もすでに難しくなっている事は非常に残念である。 |
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■茨川村の発祥と鉱山■ | |||||||
なぜこんな山中の奥へ村が成立したのかという事であるがそもそも茨川は伊勢、近江からの峠道に位置しており、茨茶屋と呼ばれる茶屋村 であったことやかつての大規模な鉱山によるものが発端とされている。近江商人や旅人、鉱山人夫、もっと遡れば武士や大名など当時は 重要な主要道路であったとされている君ヶ畑から茨川(ノタノ坂越え)、治田峠を経由し、伊勢の地に至る道の茶屋として発展した。 かつて茨川を含む小椋谷、小椋村とよばれた中世からの木地師発祥地は君ヶ畑や蛭谷が知られているがこの事からもこの君ヶ畑越えという 峠がいかに重宝されたかが想像出来る。また銀山による歴史も古い。 茨川より茶屋川沿いに50分ほど歩いた所に蛇谷と呼ばれる谷があり 藤原岳をとりまく山麓は銀や銅などの鉱脈が連なっていた事から滋賀県側、三重県側ともにかなり広域に渡って鉱山が広がっていた。 中でも蛇谷銀山は当時の日本銀生産量の約七割も稼ぎ出したと言われ、蛇谷千軒と称されるほど家屋の数も多く、北伊勢新町から治田峠を 行く道の「下り藤」(サガリフジ)と呼ばれる場所には女郎屋(遊郭)までもが存在したという。 鉱山が栄えるにつれて様々な人があちこちから介入し、更に山小屋に住まいを置く鉱夫も増加の傾向を辿り、それまでは小椋村のひとつで しかなかったが16世紀末に茨川村という独立した集落になった。江戸時代中期を最盛期に迎えた茨川銀山はその後、銀や銅の産出が衰退 し、運営は幕府から他藩へ移行していった。明治時代には政商五代友厚が採掘権を得て、その後は実子の五代アイが鉱業権を引き継いでい る。当時、すでにかなりの衰退を見せていた治田鉱山であったが五代アイは20万円という大金を投入し、大通洞杭を開こうと治田越えの 道にある銚子谷に橋を架けたり、青川のトンネルを堀削したりと鉱山の再興に力を注いでいたがやはり時代の波には勝てず、それには至ら なかった。もともと茨川や治田銀山の埋蔵量は特別に多かった訳ではなかったのではないだろうか。最盛期を迎え、一気に人々が集中し、 瞬く間にその産出が途絶えたとそんな感じがする。様々な金主が鉱山に資金を調達しているがどれも芳しくない話ばかりで手を引くに至っ ており、それで財を成したという記録は無い。 鉱山衰退と同時に次第に鉱夫は茨川を離れ、昭和初期には住居も10戸を割って、静粛な鈴鹿の山中の村へと変化していった。 また発電、排水を専門職にしていた黒川静夫氏の「伊勢治田銀銅山の今昔」には当時の採掘作業による影響などが多彩に触れられている。 排水に対する問題は完全に除外視されていた事である。坑道の穴蔵や隧道での作業はかなりの危険が伴っていたされており、命を落とされ た人も大勢いるのであろう。採掘の作業場付近に建てられた下財小屋と呼ばれる貧粗な家屋に住まいを置き、貧しいながらも劣悪な環境下 で日夜、力仕事にに励んでいた様子が伺える。蛇谷の奥の左股にはわずかながらも当時の痕跡がうっすらと点在している。 |
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■生活伝承■ | |||||||
茨川には電灯はなく夜間の明かりと言えば薄暗いランプで過ごし、水道も無く、水は茶屋川からの汲み水である。 フロは五右衛門風呂でそこに水を溜める事は子供の仕事であったようだが一升瓶で川と家を何度も往復しながら水を溜めたという。 茨川村は滋賀県神崎郡永源寺町に属しているが立地的に生業上では三重県との関わり合いが深い。奥の僻地という場所柄、行政的に郵便物 が配達される事はなく、三重県員弁郡北勢町新町にある炭屋でもあった水谷氏の家がその取継ぐ場であった。水谷氏のもとでは、山で焼い た炭の出荷や生活用品の供給までも仲介していたという事から昭和初期の頃はその待ち荷と一緒に治田から下りて来る人が持って来てくれ たようである。しかし季節のよい時であれば往来も盛んであるが冬の豪雪時になると山越えが困難になる事もしばしばあり、半月ほど途絶 える事もあったという。茨川から新町までは治田峠を越えて約6キロの行程である。 昭和30年代頃は10日に一度の割合で買い出しに行くのが常であったようであるが茨川から伊勢谷に沿った治田峠越えは勾配もキツく 決して平坦な道ではないので帰路の際、日が暮れた険道を歩くのは危険が多いという事で新町への買い出しは夜明けとともに出発するのが 常であったらしい。買出しは女性か子供の役目である。現在でもこの付近は鈴鹿で一、二を争うヒル密集地帯であり、長い峠を重い荷を 担いで汗まみれになりながら歩かれた苦労が偲ばれる。今では登山者にとってみれば利用価値の高い峠道であるが当時は病人を背に担いで 歩いたりと、茨川に住む人々にとっては正に生活の道であったのである。男の足で二時間、女の足で二時間半、子供で三時間とのことで あったようだが今は登山道して使われ、名所化している事もあり、比較的整備されているが当時の峠は獣道と言った方がよいだろう。 |
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新町から青川上流4キロの南河内谷までは林道を行き、林道終点ヤスミからは山道を行く、青川沿いに20分ほど登れば鉱山再興の目的で 五代アイによって掘られた隧道(トンネル)が見え、下り藤を過ぎて隧道をしばらく登れば右手に日ノ丘のお稲荷さんが見えてくる。 朱塗りの鳥居をくぐってそこに「油揚げ」をお供えし、しばしの休息を取る。そしてまた少し登れば杉林が一帯に広がる黒滝という水飲み 場があり、そこでノドもとを癒してさらに急な坂道を40分ほど登ると杉木立が見え始め、その中に小さな御堂があって地蔵さんが祀られ |
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ていた(中尾地蔵の事であろう)。そこでまた少し腰を下ろして休息すれば治田峠まではあと30分で到着する。 そして峠を一気に下れば30分で茨川。これは筒井正氏が当時歩かれた様子であるが父や母の事、はたまた明日は 何をして遊ぼうかと様々な事を頭に描きながら泥まみれになり、峠を歩いている風景が今にも浮かんできそうで ある。当時、小学校の遠足で三筋の滝や藤原岳に上ったという記録があるが少年らは息を切らすどころか皆、何食 わぬ顔でハシャギながら坂道を歩いていたという。それもそのはず、それだけ幼少の時分から炭焼きの手伝いに山 へ往来したり伊勢方面に買い出しに行ったりしていれば今の大人でも顔負けしそうな健脚さが培われているだろう 私の母なども住まいが山麓であったため、幼少時代は小学校まで毎日一時間掛けて歩いていたとよく聞かされた。 今では自転車も普及し到底考えられない事であり、都会で育った子供達にはとても真似の出来ない事である。 |
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また君ヶ畑までの道程は約6キロ半、さらに永源寺町役場の分所があった政所までは13キロにも及ぶ。昭和初年の頃は蛭谷から君ヶ畑へ はまだ現在のような林道は付いておらず、いわゆる山道であった。同時の様子を記録した小牧氏の文献では蛭谷から君ヶ畑へはかなり道が 悪いが君ヶ畑から茨川へは谷が増水していれば靴を脱いで行かなければならない場所も数ヶ所あり、峠までの道程は勾配がきつく、前者 より更に悪い、また人の往来した雰囲気はまったく漂わず、道はほとんど踏まれていない状態と記録されている。 君ヶ畑は木地師ゆかりの里であり、君ヶ畑越えは木地師の往来は想像出来るが茨川の住民にとって行政以外の用途は少なかったと見える。 当時、茨川小学校の教論であった石井一政氏が学校行事でしばしば役場へ足を運んでいた事から毎年、茨川の区長を務めていた。 大正11年に黄和田に水力発電所が設けられたのを皮切りに翌12年に箕川まで馬車が進める道が付き、それからしばらく時を重ねて 蛭谷〜君ヶ畑の林道が開通したのは昭和16年の事である。木地師としては、当時にしてかなりの歴史と伝承を持った地域であったが こうして御池川に沿う集落も次第に発展を遂げていったのではないだろうか。しかしながら茨川の住民は君ヶ畑に住まいを持つ者とは全く 婚姻関係が無く、蛭谷に住む小椋性を名乗る者との婚姻が大半であったらしい。茨川と蛭谷が村同士密接な関係にあったのは、 蛭谷と君ヶ畑の木地師発祥を巡る対立にも関係していたのかもしれない。 |
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■衣食住■ | |||||||
当時の茨川はかなりの積雪・多雨地帯であり、幼い子供達は雪だるまやソリを作って遊んだりと都会では経験出来ない想い出もあるようだ が2メートル以上も積もる大雪に大人達の生活は厳しいものだった。長い樹氷の世界に突入すると山へ入る事も出来ず、仕事と言えば囲炉 裏端を囲んで俵を編んだり、縄を縫ったりするくらいで唯一の男仕事は雪かきである。食料は山で採れる山菜を主食とし、時には茶屋川で 捕れる岩魚を食べる。冬場は新町からの荷出しもなかなか困難になってしまうため、冬場の食料には自家用に栽培した野菜が畑の隅に腐ら ぬよう穴を掘って上手く埋めてある。牛や豚の肉は手に入らず、鹿や猪の肉は冬の狩猟季節になると猟師が度々、村を来訪し、宿泊代代わ りにその肉を置いていったという。当時の茨川には山稼衆や猟師、登山者、行商人などが比較的頻繁に出入りしていたようだが村の者は快 くその訪問を歓迎していた。無論食事は出さぬが都会からの産物や世間の話題などが村に入ってくる事は新鮮であり、そざかし喜ばしい事 でもあったのだろう、大人子供に限らず楽しみのひとつであったようである。仕事などで都会から離れた自然の多く残る場所へ訪れるとこ ういった都会の汚れを知らぬ純粋な心の持ち主、自然を共に生きる人々の心の暖かみ、気持ちのゆとりを感じる事がしばしばある。 子供の遊びにしてもそうだろう。学校も規模が小さいため、教員は石井氏ひとりであり、出張や学校行事で不在になれば時間は有り余るほ どあったという。山奥の村で遊ぶものと言えば山に入って虫を捕まえたり、親の山仕事の手伝い、川で水浴びしながら岩魚を捕る事くらい しかない。私の幼少期も家庭でテレビゲームなどとんでもない話であったが今ではそれが当たり前になり、外で元気よく遊び回り、調子に 乗りすぎて時には近所の頑固親父から怒鳴られるといった光景は見られなくなった。 |
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茶屋川がその昔、岩魚の宝庫であった事は様々な文献により拝見出来るが住人が居た頃の茨川へ岩魚釣りに来る者はほとんど居なかった。 まずひとつは、ここまで奥へ入渓しなくとも下流域で十分に尺上の岩魚が釣れていたからである。茶屋川にせよ神崎川、御池川にせよ、 この頃の各支流は岩魚で溢れている。秘境的な存在であった茨川も廃村になり、山本素石氏が様々な著書で滋賀県の谷を紹介した事で氏の 渓流釣りのスタイルに憧れ、共感を抱いた全国の釣り師達がノタノ坂を越え、続々とこの地を訪れて結果釣り荒れた訳で氏もそれは自認し ており、著書「西日本の山釣り」を増刷するに当たってそのジレンマに触れている。岩魚が居なくなったのは、釣り人の介入もあるが自然 林の減少による山の保水力の低下、林道建設による水位の低下、はたまた山間部に建設された鉄塔の電波によるものと口を挟む者も居る。 その当時の入渓者がどの程度のものだったのか定かではないが釣り人だけで谷の岩魚が絶滅したとは考えにくいと私は感じる。 |
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また子供達は余暇に岩魚釣りも楽しんでいたようであるが当時は今と違って岩魚も貴重な食料であったので大人の 岩魚捕獲はもっぱら「流し」という方法を取った。升の枠だけのようなもので水中を覗いて縫い針でヤスの如くドンコ を突いて捕る。ドンコは今でいうアブラハヤである。次にドンコの体をぶつ切りにして釣先に付け、手元の糸を大石に くぐりつけ、そのまま川へ放り投げて一晩置く。こういった仕掛けで尺岩魚が掛かる割合は5割を超えていたという。 岩魚は夜間は浅瀬で眠っている事が多く、人々の夜間の外出は提灯を使っていたらしいので明かりを片手に夜突きなど もあったのではないだろうか。勿論、子供の釣りにしても「流し」にしても食べる分だけであった。 捕りすぎても保存する事も出来ず、川はすぐそこにあり、いつでも捕れるからである。 |
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しかし、この時にしてすでにバッテリーを使って乱獲する輩がまれに居たという。いつの時代も変わらないものである。やはり魚が居なく なったのは電気や農薬などの毒流しといった無法な乱獲が最大の原因ではないか。炭焼きなどで山へ入る山稼衆などは暗黙の了解で生態系 に悪影響を与えないその淵にいる魚だけを捕る方法もしばしば行われていたようであるがこれも一応禁止された一種の毒流しである。 この方法では通常の岩魚は一時的に気絶するだけで大岩魚などは痺れる程度であり、岩魚が絶滅する事は無い。 私もその方法は存じているが詳細はまた別の機会で触れる事にする。 |
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■生 業■ | |||||||
茨川の主とする生業は8割方が炭焼きによるもので残りが林業、いわゆる杉や松、檜の植林、伐採である。明治末期には後藤さんという方 が杉原、焼尾谷の付近で牛を飼って田も耕作していたが大正初期に亡くなり、そのあと筒井春吉氏がその山を購入しているが農作は行われ ず付近の山持ちであった伊藤忠に植林帯として貸している。また大正末期から昭和初期にかけては養蚕、茶の栽培もわずかながらに行われ ていた。養蚕は節蚕(7月5、6日)と夏蚕(8月5〜10日)とがあり、村内で百貫ほど取れたらしい。茶は玉露も若干とれたようだが 煎茶が主体で一番茶の摘み頃は6月一杯で二番茶は8月の中旬頃に5日ほどかかるのみである。 |
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昭和29年に茨川林道が開通した時にはいずれの生産も衰退し、桑畑や茶畑といった耕作地は 見当たらなくなり、自給するだけの野菜の栽培と若干の植林、伐採、そして炭焼きのみとなって いる。持ち山での植林や伐採は運搬などの費用が嵩む事や古木も少なく、20年くらいの植え込み が大半であった事からもともとそれほど盛んではない。効率が良くなったのは林道が付いてしばらくしてからである。 炭焼きは木滝など茶屋川流域の谷筋に炭焼き窯と小屋を構えて泊まり込み、一度に四貫俵を焼く。 山の中では風が強い日も多く、マッチなどは不経済のため、鋼製のヒウチとヒウチイシを使って いた。また食料は長期保存の利く塩漬けした魚の切り身や付近で取れる山菜や岩魚が主食である。 焼いた炭は自家用にも使い、あとは俵に詰めて人の背に担がれ桑名へ出荷される。 炭焼きというのもその実態は大変な作業であったと思える。 また12月7日は山の神の祭りが行われ、男の山神が白いウサギに乗り、やって来るということで 天照神社へ御鏡と御神酒と三種の肴を供えて山入り、岩魚捕りは一切禁止された。天照神社の御神 体は能面と言われていたそうである。葬儀などの際、寺は禅宗であるが茨川には無く、かつては 茨川から500mほどの川上に蓮華寺という寺院があったとも言われているが当時、寺は君ヶ畑に あった。惟喬親王でも知られ、龍の化身として雨乞の神が祀られているとも言われる金龍寺である 茨川の住民はほとんどがこの寺の檀家であり、君ヶ畑住人と通婚は無かったがここから関わり合い があった事が分かる。惟喬親王も茨川に関わり合いが深い。茨川から一時間半歩けば三筋ノ滝に出 合うがその昔、惟喬親王が犬を連れて三筋ノ滝まで行ったところ、犬がその場で引き返した事から 三筋ノ滝は犬帰滝とも呼ばれていたという言い伝えがある。その他茨川には「七人塚の伝承」 「人呼びの岩の伝承」「長瀬の身替わり地蔵」など面白い言い伝えも存在する。 |
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炭にせよ、茶、繭にせよ、政所や君ヶ畑へは全く出荷されずすべて北伊勢の方面に出荷されていた。 論文の中で小牧実繁氏は米一俵を担いで治田峠を越え茨川に帰る2人の女性を見たと言っておられるが 一俵は約15kgであり、しかも険悪な道程を歩くという事は大変な苦労である。 これを御覧になってる釣り人であれば深山幽谷の源流を放浪しながら山泊すべく、ザックを背負ってい る自分の姿を想像するであろう。しかしそれが日々の暮らしの中で当たり前のように行われているので ある。自分と置き換えてみていかがであろうか。 下界と隔離された自然味溢れる別世界での暮らしはゆったりと和やかであったとも思えるが実際、そこ で暮らした人々は多忙な割には収入は少なく、生活は決して楽ではなかったようである。もっとも現金 の持ち合わせがなくとも米や食料などは次に出荷する木炭で相殺されるのが常であった。近年では農家 や田舎暮らしといった自然に極当たり前に触れる事の出来る生活に魅力を感じ、身を投じる者も多いと |
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耳にするが現実とのギャップの大きさにその大半の者がサジを投げるとも聞く。端から見ていると良い部分しか見えないものである。 よほどの覚悟とそれなりの認識がないと山での暮らしは難しい。 |
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■茨川林道と廃村化■ | |||||||
山奥の静かな佇まい、それまで峠を越え、歩く事でしか足を踏み入れる事が出来ない車社会とは無縁の地にとうとう林道が開通した。 第二次大戦後、山林資源が重視されて木材の需要は高まり、昭和22年に杠葉尾から工事が始まって茶屋川を囲む山腹を割き、いくつもの 支谷に橋を架けて昭和29年に完成したのである。ただ、元を正せばこの茨川林道は茨川集落のために付けられたものではなかったようで ある。戦後の茨川の戸数と言えば八、九戸であり、過疎化の進む村に対して滋賀県が腰を上げるはずもなく、実際は茨川から下流の焼尾谷 や米原谷、太夫谷の付近に植林山を所有していた若林製紙と伊藤忠の両法人がその木材を運搬するために道を付けたという事である。 したがって林道は当初、焼尾谷までしか施工されない予定であったが、そこまで道が付くならと茨川に住む人々が一部負担金を支払って 要望した事で茨川までの開通に至ったという話を聞いた事がある。林道が開通した事を茨川の住人は喜び、その生活も急激に変化した。 それまでは生業上、生きる道とも言えた治田峠を越える必要がなくなり、生活物資はトラックに積まれて政所方面から入ってくるように なった。茨川で生産された炭、伐採された木材なども同様に政所を経由して八日市方面へと出荷されて行ったのである。物資が容易に村へ 入るようになり、小さな発電機を使って水車を回し、電灯を灯す家まであった。熊谷栄三郎氏が著書「新ふるさと紀行」で茨川出身の近藤 さんへ当時の様子を取材をしている。興味深い近藤さんの言葉を引用してみる。 『とにかく村の生活が大変化しました。トラックがどんどん入ってきて、私らが焼いた木炭を運んで行きました。それまでは一俵一俵、 人間が背負って運んでいたんですから、能率がケタ違いですわな。木炭なら木を切ってから金になるまでに一ヶ月はかかるが、割り木は 勝負が早い。朝、鳥の止まっていた木が夕方にはもう町の商売屋に並んでいるんですから、ずいぶん割り木を出荷しました。..中略.. ところが、そんなこんなで、みるみる山が裸になっていった。日なたへ氷を出したようなもんです。ナラやブナの雑木でも、再生してくる のに25年はかかるのに、再生する前に食い尽くしてしもた、、、』 『林道がついてから景気が良かったのは3年か5年。それ以後はもう売る物がのうなったんです。』 『それまでは現金なしで暮らせたのにカネ、カネの生活になった。』 |
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ここに人の欲が垣間見たのである。戸数わずかな茨川の村、そこにはそれらの人々がずっと暮ら していける程の資源が眠っていたにもかかわらずそれがひとときの時間ですべて崩れ去ってしま った。チェーンソーが入ってきた事によりすべてが機械化して木こりや山稼仕事は減少した。 そしてその矢先、昭和34年9月26日にすざまじい伊勢湾台風が茨川を襲った。 林道は荒れ果てた上、谷の橋はすべて崩壊し、茨川林道は事実上、通行不能となる。 林道が寸断された事で茨川には、もとの静寂さが戻ったかに思えた。 確かに滋賀県側からの物資の調達は閉ざされた訳だったが台風による茨川の家屋に対する影響も すさまじく、その復興はなかなか進まなかったという。2年後には焼尾谷まで茨川林道は復旧し たとの話もあるが昭和39年10月16日、最後の秋の大祭りに民俗調査で茨川を訪れた菅沼氏 は台風で橋が落ちたため車は折戸橋までしか入れず1時間15分歩いて茨川へ入っている。 しかし、一度、崩れ去った平穏な生活は元さやには収まらず、資源も無くなった山にトラックも 通わず目を向ける者は徐々に減少し、次第に村人の離村が相次いでやがて昭和39年には4世帯 13人となり、その8月には筒井家一戸となった。村人は林道の開通を喜ぶ反面、 |
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(写真:永源寺町三十周年記念広報誌)
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「道がつけば、貧乏人はよけい貧乏人になって村はつぶれる、10年と持たん。」と予言していた事が現実と化したのである。 昭和40年3月に茨川小学校の石井一政氏が離村し、学校は事実上、廃校と化した。先生までが離村し、授業も受けれぬ状態が続き、 昭和40年8月19日、最後の住人であった筒井利明氏は担げるだけの荷を背負い、治田峠を越えて北伊勢の地へと旅立った。 その際、NHKラジオ局が取材に来ており、筒井利明氏が「本日を以て茨川は廃村になります」と挨拶している。 山本素石氏や熊谷栄三郎氏、その他の文献で茨川の廃村は昭和38年、昭和41年と様々に書かれている事があるが実際のところ最後に 離村した筒井氏御本人が昭和40年と証言されているのでおそらくこれが正しいものと思われる。 |
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今でさえ積雪も随分と浅くなっているが渓流や山の行楽シーズンを過ぎれ ば茨川に訪れる者は極少数である。廃屋も年々朽い果てていく傾向にあり 倒壊してしまうともはやそこに村が存在していた事さえ忘れられてしまう であろう。廃屋の付近に散在する1升ビンなどを見つめていると長い夜を 囲炉裏端を囲んで湯飲みに酒を傾けていた男の姿が浮かび上がる。サンマ イと呼ばれる墓地は今や草木に覆われているが今も訪れる人々が居る。 そこで暮らした人々の様々な喜怒哀楽や生活の汗が静粛な鈴鹿の山中に 爽やかな風とともに漂っているのである。今では普通車で簡単に入り込め る茨川、今にも崩れ落ちそうな木製の古語録橋をお経を唱えながら渡った という釣り人の話は過去のものとなり、昔の時代の釣りを知る者はあえて 現在、鈴鹿の谷に出向こうとは思わないのかもしれない。 しかし、そこには言葉で伝えがたい我々が望むものがひっそりと眠ってい ると私は感じる。すでに通り過ぎた時代、今、その地を日の目に当てる事 はそこで暮らした者にとって明暗を分ける事かもしれない。 「魚がおらんな〜」と歩けばそれまでである。 我々に何かを感じさせる茨川、そっと訪ねてみたい。 |
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(写真:湖国と文化より) | |||||||
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参考文献 菅沼晃次郎著 「鈴鹿山中に消えた村の民俗」 (民俗文化 201号・202号、滋賀民俗学会) |
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小牧実繁著 「愛知川上流の村々、その生活の断片」 (地理論叢 第三輯) 筒井正著 「廃村茨川の歴史と伝承」 (論集 三重の民俗、三重大学出版会) 熊谷栄三郎著 「新ふるさと事情」山村へき地発、都会人への手紙 (朔風社) 黒川静夫著 「伊勢治田銀銅山の今昔」 (朝日新聞名古屋本社編集制作センター) 特記のない写真はすべて菅沼晃次郎氏提供によるもの。 |
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